2012年3月26日月曜日

「お太子さん」ほうわ


3月20日浄光寺「お太子さん」の法話録を掲載しました。
ご講師は、大谷大学名誉教授 木村宣彰先生です。

「法話*音声形式」http://www.jhokoji.net/cn20/pg102.html
「ポッドキャスト版」http://itunes.apple.com/jp/podcast/jing-guang-sino-wenku-fa-hua/id438080456

どちらも同じファイルです。

2012年3月20日火曜日

更新しました。

今月の掲示(伝道掲示板)を更新しました。

毎月更新しております。
よかったら覗いてみてくださいね。


さて、今日はお彼岸のお中日です。
金沢はお参り日和♪
当寺でもお太子さん(聖徳太子御忌)をお勤めします。

午後一時〜 法話 木村宣彰師(大谷大学前学長)

2012年3月11日日曜日

3.11



勿忘の鐘」の呼びかけに賛同し、「3.11」の本日2時46分に合わせて鐘つき、続けて法要を勤めさせていただいた。


被災者のために鐘をつくのではなく、震災のことを忘れ、忘却していることさえも忘れ、そのことを悲しむことなく事実から目を背け、日常に埋没している私であるからこそ鐘をつかせていただいたのです。


合掌。。。そして呼びかけに感謝。

2012年3月10日土曜日

勿忘の鐘


 http://web.me.com/kamesan77/wasurenanokane/top.html
―呼びかけ―
この「勿忘の鐘」は、東日本大震災によって被災された方、また、全国からボランティアに参加された方々の、「震災から1年という節目に、あらためてこの震災を心に刻み、そして復興と支援の思いを繋いでいきたい」という願いをうけ、瓦礫の中から引き上げた本称寺の鐘とあわせて、全国各地、それぞれの場所で同じ時刻に鐘をつき、法要を勤めることを通して、思いをひとつにしていきたいと考え呼びかけさせていただきました。ー勿忘の鐘ホームページより

遅ればせながら当寺もこの呼びかけに賛同させていただき、明日法要をお勤めします。

浄光寺「わすれなの鐘」
3月11日午後2時46分より鐘つき、その後本堂にて『正信偈』をお勤めします。

2012年3月7日水曜日

表現する③

正確には憶えていないのですが、ある画家から、例えば花の絵を描く時、私が花の絵を描こうと思って描くのではなく、描き手が花に呼ばれて、花に描かされるのだというようなことを聞いたことがあります。美しい花に感動し心が動かされるからこそ、その感動を絵として描きたいという気持ちがおこってくるというのです。人の方からねらって美しいものを描いてやろうと思って描くのではないのです。自分の思いを超えた世界に出遇った時、人は感動するのです。その感動の中で描いた絵は、自分が描いているのだけれども、その絵は自分を超えている、そうでなければ感動できないのだと思います。先ず、描き手が自分の絵に感動するのです。自分が描いたのだけれども、自分が描いたと思えない。そういう世界を「花に描かされる」と表現されたのではないかと思われます。
描き手が感動しているから、それを見るものも感動するということがおこってくる。私が絵を見て感動するということは、描き手と同じ世界に出遇い、その世界を共有するということなのだと思います。


如来所以興出世  唯説弥陀本願海
如来(お釈迦様)、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり
『正信偈』親鸞聖人

お釈迦様がこの世に現れるのは、ただ阿弥陀仏の海のように深くて広い本願を説くためであると。お釈迦様は人類史上はじめて、本願の教えをことばとして表現されました。弥陀の本願の世界に触れた時の感動を南無阿弥陀仏と名でもって表現されたのです。
先ほど「花に描かせられる」といいましたが、同様にここでも「本願のはたらきに説かされた」といえるのではないでしょうか。本当の願いというものは、必ずかたちをとってきます。すべての衆生を救わずにはおれないという大悲心が本願としてかたちをとり、さらに具体的に南無阿弥陀仏という名となってきたのです。その何とかして迷える衆生を救いたいという願いが本物だからこそ、私たちでも窺い知ることのできるよう名にまでなってくださっているのです。
だから私たちがその名を聞くということは、お釈迦様が出遇いお説きになられた弥陀の本願の世界にお釈迦様と同じく私たちも触れさせていただくということなのです。一声のお念仏のところにお釈迦様も親鸞聖人も私たちも同じ世界に出遇わせていただく。時代や人種、性別、貴賎などを超えて共有できる世界を私たちに気づかせるはたらきを南無阿弥陀仏と表現し、それに出遇った者が出遇うことができた感動を南無阿弥陀仏と表現してきたのでしょう。