2012年3月7日水曜日

表現する③

正確には憶えていないのですが、ある画家から、例えば花の絵を描く時、私が花の絵を描こうと思って描くのではなく、描き手が花に呼ばれて、花に描かされるのだというようなことを聞いたことがあります。美しい花に感動し心が動かされるからこそ、その感動を絵として描きたいという気持ちがおこってくるというのです。人の方からねらって美しいものを描いてやろうと思って描くのではないのです。自分の思いを超えた世界に出遇った時、人は感動するのです。その感動の中で描いた絵は、自分が描いているのだけれども、その絵は自分を超えている、そうでなければ感動できないのだと思います。先ず、描き手が自分の絵に感動するのです。自分が描いたのだけれども、自分が描いたと思えない。そういう世界を「花に描かされる」と表現されたのではないかと思われます。
描き手が感動しているから、それを見るものも感動するということがおこってくる。私が絵を見て感動するということは、描き手と同じ世界に出遇い、その世界を共有するということなのだと思います。


如来所以興出世  唯説弥陀本願海
如来(お釈迦様)、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり
『正信偈』親鸞聖人

お釈迦様がこの世に現れるのは、ただ阿弥陀仏の海のように深くて広い本願を説くためであると。お釈迦様は人類史上はじめて、本願の教えをことばとして表現されました。弥陀の本願の世界に触れた時の感動を南無阿弥陀仏と名でもって表現されたのです。
先ほど「花に描かせられる」といいましたが、同様にここでも「本願のはたらきに説かされた」といえるのではないでしょうか。本当の願いというものは、必ずかたちをとってきます。すべての衆生を救わずにはおれないという大悲心が本願としてかたちをとり、さらに具体的に南無阿弥陀仏という名となってきたのです。その何とかして迷える衆生を救いたいという願いが本物だからこそ、私たちでも窺い知ることのできるよう名にまでなってくださっているのです。
だから私たちがその名を聞くということは、お釈迦様が出遇いお説きになられた弥陀の本願の世界にお釈迦様と同じく私たちも触れさせていただくということなのです。一声のお念仏のところにお釈迦様も親鸞聖人も私たちも同じ世界に出遇わせていただく。時代や人種、性別、貴賎などを超えて共有できる世界を私たちに気づかせるはたらきを南無阿弥陀仏と表現し、それに出遇った者が出遇うことができた感動を南無阿弥陀仏と表現してきたのでしょう。