2013年11月9日土曜日

住職就任式〜前住職挨拶〜

*前住職の挨拶*

本日は、住職就任の式にご参集いただき、新住職には浄光寺門徒会より過分なる「目録」の贈呈を、くわえて小生には身に余る感謝のお言葉を頂戴いたし、恐悦の至りにございます。しばらくお時間をいただき、三十三年を振り返り思いつくまま話させていただければと思います。
 
私にとって、昭和五十五年の父の急逝は想定外のことでした。、寺に生まれ、寺に育ったに違いない私ではありましたが、何も寺のことは知らなかったこと、ようやく三十七にして知らされました。一般的には自信に満ちバリバリ仕事を熟す歳ですからね! 誠にお恥ずかしいことですよ!実際、寺の内外からそういう眼を痛く感じておりました。
 
どう住職の道を歩めばよいのか煩悶しておりました、その頃出遭いました一人の古老の言葉が今でも忘れません。いかなる著名な高僧・学者の言葉よりも私にとっては有難く、嬉しかったことです。
 「な~も心配せんでえ~、わしらがついとる、ただ浅の川からこっち(北部)で光る処となって欲しい。けっしておおきなる光ではなくて、どんなに小さくてもピカッと光り輝くところを創って欲しい」と言われたことです。後の部分が自分には重くのしかかって、返って一体どうすればいいのかわからなかった。どうして鈍が光を放ち輝けるなんて不可能!嫌なこという人だな~と、ずっと思っておりました。しかし短い言葉ながら、長らく頭の片隅に残り続け忘れることはありませんでした。
 
最近やっとその意味のありがたさを感じられるようになってきました。一寸説教ぽくなりますが、しばらく我慢してください。親鸞さまは浄土の一つとして
 「光耀たがひにかがやけり 華果枝葉またおなじ 弥陀を帰命せよ」と表現されてますわ。大意は浄土には樹々の光が互いにかがやき、一樹の中でも華・果・枝・葉がまた互いにかがやいている。このような本願によって聚められた仏・弥陀をたのめと言うことでしょうか。ことに光耀とかがやけりが意味ある言葉と思ってます。仮名のかがやけりにわざわざルビを「映発す」と記しておられる。因みに「映」は他から光を受けて、そのものが本来持つ色彩が盛り上がってハッキリ見えることだと。面白いのは「受けて」とあること。これは「いただく」ともいえましょう。すべてをです。自己分別はいらんのですよ。そこから解き放たれるというか、前の古老のアドバイスも其処にあったんでは?謙虚にして、あるがままに生きよとのお導きであったのしょう。くわえて「曜」ではなく「耀」と拘ってあることも、小さくとも光り輝く処への願いが読み取れ、長年、法に勤しまれた方の一言であったのですよ。あわせて小生のため、ご批判をいただいことに深謝の他ございません。
 
私が賜ったご厚情、ご叱責に倍し新住職にも建設的ご批判、ご指導を頂戴して一寸輝く処が皆様とともに、受け継いでいかれることを念願して御礼の挨拶とします。
       平成二十五年十月十八日
                        浄光寺前住職 釋受宣